ジャンプレジェンド作家スペシャルインタビュー 「ゆでたまご先生が語る週刊少年ジャンプ」

ゆでたまご作画担当
中井 義則先生
ゆでたまご原作担当
嶋田 隆司先生

第5回 連載終了から苦難の時期を経て

――8年続いた『キン肉マン』の連載をやめられるときの心境、というのはどのようなものだったんでしょうか?

嶋田
嶋田

『キン肉マン』に関しては、ジャンプの編集部から言われたわけじゃなくて、自分たちでやめるって決めたんですよ。だから心の準備はできていたので特に落ち込むなんてこともなく、穏やかなものでした。

――なぜご自分でやめようという決心を?

嶋田
嶋田

それはもう単純なことで、アンケートで1位を取れなくなってきたからですね。

――でも上位は上位だったんですよね?

嶋田
嶋田

ええ、最終回近くでも5位までには入っていたんじゃないですかね。

――十分立派な成績だと思うんですが…1位じゃなければダメだった?

嶋田
嶋田

当時のジャンプでは伝統的に「人気のあるうちに惜しまれて終了する」というのが美学としてあったんですよ。その典型が車田正美先生の『リングにかけろ(1977年)』でした。巻頭カラーで最終回、それを見て「うわー、めちゃくちゃカッコいいなぁ~!」って。こんな最高の花道はないですよ。

中井
中井

だから『キン肉マン』もそろそろ引き際かな…という話を相棒としたのはよく覚えてますね。幕引きは必ず自分たちでやろうって。

――編集部から引き止められたりはしなかったんですか?

嶋田
嶋田

いいえ全然。よく「人気漫画はやめさせてもらえず編集部に引き伸ばされる」なんて噂が立ちますけど、そんなことは実際ほとんどないですよ。少なくとも僕らの頃は、作家がやめるといえばその意志は尊重してくれました。だから変に引き留められるなんてことはなかったですね。だって今のジャンプを見てもそうじゃないですか。

――確かに『バクマン。(2008年)』『暗殺教室(2012年)』『黒子のバスケ(2009年)』あたりを見渡すと、かなりの人気を保ったまま幕引きされている作品も多いですね。

嶋田
嶋田

そうでしょ。ごく一部ではそんな話もあったのかもしれませんけど、普通はそういうもんですよ。それでどこの号を最終回にするか決めさせてもらって、本当はその号の巻頭カラーで終われたらカッコいいなと思ってたんですけどね。残念ながら僕ら…原稿があまり早くなかったので(笑)。

中井
中井

カラーページは締切が1週早まるので、難しかったんですよ。

嶋田
嶋田

だからカラーはあきらめて、その代わり大増ページで31枚取ってもらいました。普段が19枚ですから、かなり大胆に増やしてもらいました。そうしてやめた次の日、スポーツ紙が一斉に「『キン肉マン』連載終了!」って取り上げてくれてたんですよ。あれは嬉しかったなぁ。

――昨年の9月に『こち亀』連載終了のニュースが流れた時も、日本中がそういう雰囲気になりましたね。

嶋田
嶋田

そうなんですよ。だからあの騒然とした様子を見て僕が思いだしたのは、やっぱり自分の作品だった『キン肉マン』がジャンプで終わった時のことでした。そうやそうや、こういう感じやったなぁって。

――でも『キン肉マン』の連載を終えられて、その3か月後には早くも新連載『ゆうれい小僧がやってきた!』を開始されました。新連載の準備というのはまた大変なことですし、実質あまりお休みはなかったのでは?

嶋田
嶋田

なかったですね。でも休みたいから終わらせた、ということでもなかったので。

中井
中井

当時は作家としていろんなタイプの作品を描けないと一流じゃない、というのが当たり前だと思ってたんですよね。それでちょっと毛色の違う作品をやってみたい、という思いもありましたから。『キン肉マン』をあっさり終わらせられたのは、そういう野心もまたあった気がします。

嶋田
嶋田

今でこそ漫画が専門化されてきてて、料理漫画といえばこの人、医療漫画といえばこの人…みたいな認識が普通になってるじゃないですか。でも当時は、あらゆるジャンルの作品を描けてこそ一流だという考えが大勢を占めてましたからね。まさに一流のお手本だった手塚治虫先生がそうされていたように。

中井
中井

あの赤塚不二夫先生だって『天才バカボン』に代表されるギャグの大家という認識しかない人も今では多いと思いますが、先生のヒット作のひとつ『ひみつのアッコちゃん』は少女漫画でしたからね。そういうのも描ける懐の深さに憧れはありましたね。

嶋田
嶋田

結果的には『キン肉マン』の後にジャンプで描いた作品はなかなか思うように上手く行かなくてね。人気がついてこない中で焦りもありましたから、キャラクターが確立する前に変更を余儀なくされたり、それでまた空回りしたり。

――新連載を起こすというのはやっぱり大変なんですね。

嶋田
嶋田

大変ですね。しかもジャンプの場合はまず読切を掲載して試して、それで読者の評判がよくないと連載まで持っていけないですから。『SCRAP三太夫(1989年)』という作品なんて、慎重を期して読切2回試しましたからね。

それでどちらも読者にいい評価をもらって、そこまでやって万全のつもりで臨んでも、いざ連載となるとやっぱりダメになることもまたあって。それは同じ雑誌内の周りの作品との兼ね合いもあるし、本当に難しい。

――後輩としての強力な新人もどんどん出てきますよね

嶋田
嶋田

気が抜けませんでしたね。『SCRAP三太夫』の時は、同時期に小畑健君の『CYBORGじいちゃんG(1989年)』という作品が出てきて、同じロボットもののギャグだったんです。それでどっちが残るということで編集部の連載会議にかけられたようで、僕らの方が終わることになってしまった。

それはもう実力勝負の世界だから仕方ないことなんですが、やっぱりそういう風になった時は正直、悔しいですよね。でもその悔しさをバネにまた頑張るしかないですから。今となっては『キン肉マン』以降の作品でそれを学べたのは大きかったですけど、当時はやっぱり焦りが募っていく一方でしたよね。

中井
中井

僕は『SLAM DUNK(1990年)』の井上雄彦さんが出てきたときは、これはとんでもない新人が出て来たぞと、かなり衝撃を受けましたね。絵は上手いし、センスも新しい、漫画というもの自体が変革してきているんだなというのを強く感じました。

昔ながらの男臭いコテコテの少年漫画は、このままではどんどん消えてなくなってしまうんじゃないか、という恐怖を覚えましたね。

嶋田
嶋田

それを言うならもっと前から…僕らの世代ですけど、鳥山明さんに対してその怖さを僕はずっと感じてました。僕らは昔から好きだった漫画をリスペクトして踏襲してやってきた。でも鳥山さんの場合は全然違う異質の世界から飛び込んできたような感覚があって、それでいてギャグもちゃんと面白かったですから。

僕らとは全然違うタイプの漫画家やなって。今となっては違う個性だということで割り切って見ることができますけど、当時は真正面から取っ組み合おうと思ってたんですね。

でもそうなると鳥山さんを相手にした場合、正直どうやって戦えばいいのかわからなかった。そりゃそうですよね。今から思えば、そこは違うジャンルだったんですよ(笑)。

中井
中井

『北斗の拳(1983年)』の原哲夫さんの絵柄の流れを汲む人がそこからどんどん増えてきた時も悩みましたね。こういう絵が主流になっていく流れなら、さぁ自分はどうしようかと。

嶋田
嶋田

僕はそれ、森田まさのり君が出てきたときに思いました。絵で魅せるこの手法は面白いなぁって。その後にさっき相棒も上げた井上雄彦君も出てきて。だんだんそういう新しい人の手法が主流になっていくと、僕らは取り残されていってるような気がして焦り始めたこともありました。

でもそれで右往左往してもろくなことにならない。どこかでようやく開き直ったというか、気づいたんですよね。「違う、僕らが愛されてるのはそこじゃないやん!」って。

そこからはもうあえて自分たちの形を変えようとするのはやめて、このまま行こうと。そうしたら自然と地に足がついてきて、少しずつですけどまた自分で納得できる漫画が描けるようになってきた気がします。

中井
中井

自分たちの武器は何なのかって。そうしたらやっぱり格闘技の漫画だけは誰にも負けない。そのためには僕らだけのこういう描き方ができるって。散々悩んだり焦ったりしてきましたけど、その答えにたどり着けたのはよかったですね。そういう苦労を経ないとわからなかったことだったんじゃないかともまた思います。