――周りの先輩の先生方との交流というのはおありだったんでしょうか?
はい、それは僕ら、最初は集英社内の執筆室というところに入り浸って作業してましたからね。ジャンプ編集部の片隅にあった、仕事が遅れ気味の漫画家が作業をするためのスペースなんですけど、そこにいると直接の担当の中野さんだけじゃなくて、いろんな編集者の人が声かけてくれるんですよ。
「飯食った?」「どこか食べに行こうか?」って。それで連れられていくと、その先に他の漫画家の先生がいらっしゃることもよくあって。『こちら葛飾区亀有公園前派出所(1976年)』の秋本治先生ともそれで初めてお会いしたんですよね。
集英社の近くの中華料理屋さんで。そこでご飯食べながら親しくお話をさせていただいたり、身になるアドバイスもいただきました。あと執筆室といえば、僕らの前からそこにずっといらっしゃった江口寿史先生からもいろんなことを教わりましたね。使いやすい漫画道具や、それを売ってるお店の情報などいただいて。
――まさに頼れる先輩方という感じですね。
ええ。特に僕らはアシスタント経験もなくデビューさせてもらいましたから。現場でそういう先輩の先生方に教えていただいたことが、そのまま財産になったという感覚は強いですね。
それに直接、仕事の技術以外のところでも、たとえば高橋よしひろ先生に最初にお会いした時は感動しました。集英社の下までオープンカーでいらっしゃって横づけされて、それがものすごくカッコよかったんですよね。
ああ、これがジャンプの最前線で活躍されてる一流の作家さんの姿なんやなぁって…大いに刺激を受けました。
――嶋田先生の方も、記憶に残る先輩方のエピソードなど何かおありですか?
僕はやっぱり強烈に記憶に残ってるのは、作家の忘年会ですね。さっきも少し話に出ましたが、ジャンプの新年号の表紙は作家が全員大集合して写真撮影をして、それを表紙にしてたんですよ。
それで富士山をバックに写真を撮るということで、作家全員で箱根のホテルまでバスで泊まりに行って、その先で忘年会があったんですけど、これがまたものすごい会でね。
僕ら未成年だからまだ飲めなかったんですけど、それでも一番年下でしたから先輩方にお挨拶しながらお酒を注いで回ってね。それよりもっと大変だったのは、作家が全員、それぞれ何か余興をやらないといけなかったんですよ。
――それは宴会芸のようなことでしょうか。
そうですね。だってそこで一番の先輩の本宮ひろ志先生が座頭市のモノマネとかされてるんですから、僕ら新人が断るわけにはいかない(笑)。
それで中井君と二人で僕ら、漫才やりました。大先輩の先生方を前にして、人生幸朗・生恵幸子師匠のぼやき漫才のネタをそのままやってみて。なんとかウケたのでホッとしましたけどね。
――それは…なかなかの修羅場ですね。
緊張しましたよ。でも本宮ひろ志先生を筆頭に、車田正美先生、平松伸二先生、みんなカッコよかったんですよね。だからちょっと怖くもありましたけど(笑)、そこに自分たちもいられるというのがなんかやっぱり嬉しくて。
でもそうして僕らがあまりに緊張して所在なさげにしてるのを察してくれてね、気を遣って声をかけてくれた先輩がいたんです。秋本治先生です。にこやかに「トランプでもやらない?」って誘っていただいて。
そう、秋本先生と相棒と僕とで大貧民、やったよね。
秋本先生のあの優しさは当時からずっと、今も変わらないですからね。思えばあれが僕らのデビューした37年前で、秋本先生も今年連載40周年で『こち亀』連載を終えられましたけど、そう考えるとあれはまだ『こち亀』の連載3年目くらいの話だったんですよね。
そう考えると感慨深いものがありますね。秋本先生がご活躍なのはもちろんのこと、僕らも僕らでジャンプからいったん離れはしましたけど、あの時始めた『キン肉マン』の連載を今も続けさせていただいているというのはね。
そうですね、改めて振り返るとこれだけ長い間よく続けられてきたなとも思います。
――今でこそ『キン肉マン』はジャンプの歴史の一翼を担った大作品だという確固たる評価があると思うのですが、やはり先の見えなかった当時は不安な中で連載されていたんでしょうか?
そりゃ最初はずっと不安でしたよ。新年号の作家大集合写真の表紙にしても1年目は無事に載れたけど、次の年もそこにまた載れるかどうかはわからない。人気アンケートの評価が悪いと中野さんもまた発破かけてくるんですよ。
「君たち来年はあそこに載ってないかもしれないね」って。でも僕らからするとその脅し文句はシャレになってない。本当にそうなったらどうしようって、常にビクビクしながら描いてましたよね。
ここにずっといたい!…と思って毎年毎年、頑張るしかなかったですよ。多分、それは僕らだけじゃなくて、みんなそうだったと思うんです。車田先生にも言われましたもん。「この新年号の表紙に載るのが作家としてのステータスなんだぜ」って。
でも今のジャンプではもうこの表紙はやってないですから…それが当時と今とでは大きく違うところかもしれませんね。
人気が落ちるたびに相棒とじっくり相談しましたね。どうやったら上がるやろって。
特に『キン肉マン』で言うと、連載2年目くらいの「アメリカ遠征編(単行本4巻~6巻収録」のあたりでガタッと人気が落ちたんですよ。それがまたタイミング悪いことに、僕が東京に出てきたばかりの頃でね。
中井君は連載始まってすぐに東京に来たんですけど、僕は大阪に残って原作書いてたんです。でもその前の「超人オリンピック編(単行本 3巻~4巻収録)」がかなり調子良かったので、それで僕も東京に出てきたんです。
それで東京来た途端に、終わるかもなんて話になったらもう目も当てられませんからね。死にもの狂いで頑張るしかないじゃないですか。それでなんとか持ち直してくれて。あの頃が一番、危なかった時期やったよなぁ?
そうやね。そこからはジャンプで連載終えるまで、フレッシュジャンプで連載していた『闘将!!拉麺男』との同時進行もあって大変は大変でしたけど、連載自体は順調に行けましたね。
当時のジャンプでは、連載は5年続けばいい方だって言われてたんですよ。それが結果的に8年も続けられましたから。
単行本の巻数だと、ジャンプではないですけど『巨人の星』が全19巻、『あしたのジョー』が全20巻(共に週刊少年マガジン)。それを超えられたらすごいって感覚でしたからね。
当時は単行本が20巻を超えるってこと自体がすごかったんですよ。今ではもうそんな程度の巻数は、珍しくもなんともなくなっちゃいましたけど…。
だから自分たちの作品が20巻を出せた時は、まず嬉しかったですね。これで少しは一流の漫画家の仲間入りができたかなと。
そこから先はどこまでやれるかということで、今から考えると畏れ多い話なんですが当時は秋本先生の『こち亀』が3年先輩でジャンプの連載最長記録を更新され続けていて、それに続く長期連載が僕らだったんです。
だから「いつか秋本先生の記録を抜いて僕らが1位になろう!」って、いつの頃からかそれを目標に頑張り続けてたんですけどね。
無謀でしたね。8年で息切れしました(笑)。
それに対して向こうは結果的に連載40年ですからね。しかも1週も休みなしで。改めて秋本先生はすごいですよ。
『こち亀』40年のうちのわずか8年ですが、一緒にやらせてもらってた身として、心から敬意を表したいと思います。